恥の無いところにエロスはない
「恥の無いところにエロスはない」(村上龍『エクスタシー』p.187)
本の中で数回登場するこのフレーズが気になった。
その理由は後にして、
このフレーズで真っ先に心に浮かんだことが、2019年の夏に行ったタイでの出来事だ。
日本国内の一人旅は、高校の時からふらっと出かけることはあったのだが、
プライベートで行く海外はこの時が初めてだった。
そこで、一緒に行っていた者に連れられて、連日、夜はナナプラザというゴーゴーバーに繰り出した。
初日は、様子見として二件くらい回って帰路についた。風俗というものにあまりに不慣れであったために、戸惑いと恥ずかしさから店の子を呼ぶなんてことは到底出来なった。
二日も通うと何となく慣れてくる。そして、
今日は、イこう。
その謎の決意と約半年ぶりという期待に胸を躍らせ三日目に参戦した。
結論を言うと、私の完敗だった。
勝てっこない。そんなの分かりきっていたはずだった。
出たら終わり。コトが終われば即解散。
そんなルールは理解していたつもりでいた。
予想だにしない大きく空虚な賢者の波に抵抗する術無く溺れた。
たとえ一時的なモノであっても、何がそこまで自分を虚ろなものにしたのか。
ホテルへの帰路の途中、マクドナルドで反省会を細々と開いた。
10時くらいであっただろうか。綺麗で可愛い子の多くは、その日の営業を終えていたのだろう。決意した私は、焦っていた。早くいかねば。。。
二階の店で、座ってSINGHA BEERを飲んでいると、如何にも早く上がりたいのだと言わんばかりにアイコンタクトをしてくる女がいた。
遠目で見ると、悪くはないと思って隣に呼んだ。焦りからか特に話もせず即決。
三階の部屋に入った。
店を出てから、その部屋までの道中で明るいところに出たせいで、知りたくなかった情報がいくつか飛び込んだが、まあそいつがレディボーイじゃないことが確認できただけよかった。
部屋に入ってから、コトが始まる。問題が起こったのはやはりそこだ。
その子がシャワーから出た時、バスタオルの一枚も巻きもせず出てきた。
男としての見栄が冷静を装っていたものの、焦りは滲み出ていただろう。
そんな中、始まった。
おかしい。すぐに挿れさせようとしてくる。
今行われたのは作業としての三往復の尺八。
「ん」じゃないよ。
仕方なしに挿入。
せめて動作と喘ぐ演技の声のタイミングを合わせてくれ。
なんやかんやありながら、どうにか別のことを考えながらイクことには成功した。
(嗚呼、全く別のことに該当した方がもしこの記事を見かけたら本当にごめん。今度美味い飯でも奢らせて。)
その一連の行為に恥じらいはまるでなかった。
それもそうだろう。むこうは仕事。何人も相手して、私はその一人。
私のその時の経験はわずかなもので、お金の絡む交換は初めてだった。
恥がエロさに直結している。間違いない。
恥もエロスもない行為にイかされた。私の完敗だ。まさに"chết rồi"(死んでもぅた)。
自分が恥ずかしかった。マクドナルドの反省会。
真白のパズルを解かされているかのような、答えの見つからなさ。
そこからくる空虚の連鎖。
まさか、この本にその空虚さになった答えがあったとは。
恥の無いところにエロスはない。
こんな自分の醜態を文字に綴り、だれも見ないだろうと公開する。
なんと恥ずかしい。
この恥ずかしささえも、エロスとして消化できるのだろうか。
そんなことを考えつつ、またいつもと変わらぬ天井を眺めながら、一人床に就くことにしよう。
遅くなったが、この記事は、決して、性産業を卑下したり、助長したりしているものではないことを断っておく。